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発足への道

発足への道

植物(切花等)が観賞目的として独立したのは鎌倉時代前後だといわれています。

大阪では豊臣時代より天下の台所として栄え、各地から様々な物産が集まりました。植木の類も例外ではなく、全国各地から水運により持ち込まれました。あみだ池から土佐稲荷の沿道には市が立ち、造園業者も全国から集まって賑わいを見せたと伝えられています。

明治から大正にかけて生産された切花等は、大阪の場合、大阪・堺の卸売市場(花問屋)に大八車に乗せて持ち込まれ、基本的には個人売買の形で取引されていたようです。

昭和4年、当時の大阪市長関一氏は自ら会長を務める大阪都市協会の主催で「砂漠の大阪にオアシスをつくりませう」というスローガンを掲げ、都市緑化キャンペーンを展開。

このときスタートした植木市が現在ある植木市の前身となりました。

植木市の始まり

植木市の始まり

戦後焼け野原となった街を前にして大阪都市協会は大阪復興のため、緑の街づくりのために植木市再開を企画し、市民に植樹を奨励することになりました。

今でこそ公園に植木市が立つことを不自然に思う人は少ないでしょう。しかし、当時公園での物品販売は禁止でした。人々が自由に緑と接することができる場所、公共にして個々の憩いを満たす空間が公園。との考えから植木市を開くための特例として次のような取り決めがなされました。

1.良品を安くこれ以上値引きできない正価格販売をすること。即ち大人も子供も安心して原価適正値段で買える様にすること。
2.都市協会作成の値札をつけること。
3.大阪市と都市協会での販売価格の審査をすること。
4.植木類は市内に限り無料配達し、植え付けもサービスすること。
5.販売業者は所定の名札を立てること。

こうした事項をもとに、行政と一体化の取り組みとして公園での植木市が再誕しました。

昭和27年4月、第一回の植木市を昔の植木市ゆかりのあみだ池公園で開催しました。当初3年間ほどは売れ行きが順調だったとはいえず、出店数も5店程度で、期間も15日ほどでした。

昭和30年を過ぎた頃から、仕入れに外来種が増えてくるのとあわせ、緑化会はいよいよ歩み始めました。

植木市の歩み

時代とともに移り変わるニーズに対応すべく、緑化会でも様々な成長をとげてきました。

「無料配布」イベントの立ち上げ。
本企画は大盛況をいただきました。

「花と緑の相談所」の開設。
「植木市に来て品物を求めるのと相談できる場所が一体ですごく安心」との声を沢山いただきました。

「サービスデー」も市民還元の企画として開始。
無料配布と並んで緑化を促すイベントとして評価をいただいています。

「花と緑の講習会」のスタート。
毎回女性の来場者も多く、メモを取ったり作業に見入ったりと定着してきた様子が随所に見受けられます。

植木市はアフターケアに自信をもてる。
相談しながら安心を買っていかれる。
などの声もいただいております。

今、これからの植木市

これからの植木市

スーパーやコンビニでも「緑」を手に出来る時代になり、緑との関わり方も変わってきました。植木市が都市と都市に暮らす人たちへの緑の普及そのものである時代も終わりを告げました。

しかし身近にあって気軽に会話できるスタンスを誇るのも植木市であり緑化会です。プロ集団としての窓口という利点を生かし、様々な可能性を引き続き模索していく必要があります。

焼け野原となった街、急激な経済の成長に伴い失われていった自然を回復すること。緑化会と同じ時代を歩んできた環境問題。気温を上昇させる『温暖化』に対して、CO2を吸収し酸素を排出する植物との付き合い方を一人一人と身近に、そして直接働きかけ、市民レベルでの問題解決に貢献する事が今後の最重要課題です。

社会全体、特に都市にはゆとりがなくなってきました。植木市にも少なからず影響を見出せます。できれば各店に腰を下ろして話ができるような状況を、相談所もゆったりとした雰囲気で対応できる設置となれば、今以上の貢献が可能になると考えています。

子供が小走りにやってくる。
今母親から貰ったばかりの五百円玉を握って「花は咲きますか?」とポット苗をさして言う。
自分が育てるのだと母親に話しながら苗木を抱えて帰っていく。
そんな光景が毎年会場のどこかで展開しています。

人と緑の橋渡し、街と心のオアシスであり続けられるよう、大阪緑化会は邁進していきます。